社号

〒640-0361
和歌山市伊太祈曽558

伊太祁曽神社の御由緒について

御祭神

伊太祁曽神社にお祀りされている神様は、五十猛命(いたけるのみこと)と申します。 『日本書紀』には、我が国に樹木を植えて廻り、緑豊な国土を形成した神様であると記されています。

高天原を追われた素戔嗚尊(すさのおのみこと)は、子である五十猛神と共に新羅国に天降りますが、その地は気に入らず埴土で船を造り出雲国にやってきます。ここから有名な八岐大蛇(ヤマタノオロチ)神話のお話へと続きます。そして五十猛神は高天原から樹種を持ってきますが韓国には植えず日本に持ってきて、九州より播き始めて日本中を青山にしました。このことから有功神(いさおしのかみ=大変に功績のあった神様)と呼ばれています。紀伊国に静まる神がこの神様です。

【日本書紀】
一書に曰はく、素戔鳴尊の所行、無状し。故れ諸神科するに千座置戸を以てして、遂に逐ひたまひき。是の時に素戔鳴尊、其の子五十猛神を帥ゐて、新羅国に降到りまして、曽尸茂梨之處に居します。乃ち興言して曰はく、此の地は吾不欲居とのたまひて、遂に埴土を以て舟を作り、乗りて東に渡り、出雲国の簸川上に在る鳥上峯に到ります。時に彼處に人を呑む大蛇(蛇は原典では虫ヘンに也)有り。(中略)初め、五十猛神天降ります時に、多に樹種を将て下りき。然れども韓国に殖ゑずして、盡く持ち帰りて、遂に筑紫より始めて、凡て大八洲国の内に播殖して、青山に成さずといふこと莫し。所以に五十猛命を稱へて有功之神と為す。即ち紀伊国に所坐す大神是なり。

素戔嗚尊は韓国には金銀があるが、自分の子孫が治める国に浮宝(うきたから=船)がないのは良くないと仰られ、体毛を抜いて様々な木をつくります。そして木の特性にあった使い方を定め、御子神である五十猛命、その妹である大屋津姫命、抓津姫命(都麻津姫命)が各地に播き紀伊国に鎮まりました。素戔嗚尊は熊成峯から根国に行きました。

【日本書紀】
一書に曰はく、素戔鳴尊の曰はく、韓郷之嶋は是れ金銀有り。若使吾が兒の所御る国に浮宝有ずば、未是佳也とのたまひて、乃ち鬚髯を抜き散つ。即ち杉と成る。又胸毛を抜き散つ。是桧と成る。尻毛は是柀と成る。眉毛は是れ●樟(●は木予象)と成る。巳にして其の用ふべきを定む。乃ち稱して曰はく、杉及び●樟、此の両樹は以て浮宝と為す可し。桧は以て瑞宮を為るべき材とす可し。柀は以て顕見蒼生の奥津棄戸に将臥さむ具に為す可し。夫の瞰ふべき八十木種も、皆能く播し生う。時に素戔鳴尊の子、号を五十猛命と曰す。妹は大屋津姫命。次に抓津姫命。凡べて此の三神、亦能く木種を分布す。即ち紀伊国に渡し奉る。然して後に、素戔鳴尊熊成峯に居しまして、遂に根国に入りましき。

『古事記』には大屋毘古神(おおやびこのかみ)として登場し、大国主神(おおくにぬしのかみ)が生命を狙われる災難に遭われたときに助けた神様と記されています。

また本殿の両側には脇殿があり、妹神である大屋津比売命(おおやつひめのみこと)、都麻津比売命(つまつひめのみこと)をお祀りしています。

五十猛命を祀る神社は全国に約300社とも言われています。その中で、特に 『延喜式』 に記載のある神社(イタテ神を祀るとされる神社) は16社あります。(下地図はイタテ神を祀る式内社の所在地)

 

御鎮座の由来と沿革

  • 神代から古代
  • 伊太祁曽神社についての具体的な年号の初見は「続日本紀」の文武天皇大宝2年(西暦702年)です。
    神代のことはわかりませんが、伊太祁曽神社が現在の社地に静まります以前には、日前神宮・国懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかがすじんぐう=通称:日前宮にちぜんぐう)の社地にお祀りされていたようです。
    日前宮のご鎮座が垂仁天皇16年と伝えられていますので、その頃に山東(さんどう=現在の伊太祈曽)に遷座せられたようです。
    しかしその場所は現在の社殿のある場所ではなく、南東に500mほど離れた「亥の森」と呼ばれる所でした。
    現在も田んぼの中にこんもりした森が残っており、いかにも神奈備の様相を呈しています。
    亥の森は旧社地として、小さな祠を祀っており毎年旧暦十月初亥日に「亥の森祭」が執り行われます。

    「寛永記」には「伊太祁曽明神ハ和銅六年十月初亥ノ日当所に遷リ給フ」と記されており、現在の社地への鎮座は和銅6年(西暦713年)ということになります。
    つまり太古より祀られていた伊太祁曽神社は日前宮の鎮座とともに山東に遷り、大宝2年の官命によって社殿の造営がはじめられ、約10年後の和銅6年に現在の地にご鎮座になられたというのが通説です。

    延喜式神名帳に所載の神社(式内社)で、明神大・月次・新嘗・相嘗に預かると記載されており、平安期には朝廷の崇敬が篤い大社であったことがわかります。
    紀伊国(木国)の一ノ宮として朝野の崇敬を受けてきました。

  • 中世から近世
  • 新義真言宗である根来寺との関係が非常に深く、境内南側には 「興徳院」、奥宮である丹生神社に隣接して 「傳法院」 という、いずれも真言宗寺院が神宮寺として存在しました。 (興徳院については、現在は廃寺)
    覚鑁上人が傳法院を建立し、伊太祁曽神社の奥之院としたと伝えられています。

    また江戸期の文書には、正月15日の卯杖祭、9月15日の例祭に流鏑馬が行われたことなどが記されています。

  • 明治から現在
  • 明治18年には国幣中社に列格し、大正7年には官幣中社に昇格しています。
    昭和37年、昭和46年、昭和52年、平成9年、平成24年の天皇陛下御来県の砌には畏くも幣饌料を頂戴致しました。
    昭和9年の台風により社殿が甚だしく損壊しましたが、畏くも御内帑金(ごないどきん)のご下賜により内務省直轄工事で復興に着手し、昭和12年3月に竣工しています。
    以後、屋根の葺替工事、常磐殿の改修、ときわ山造園、神池改修等の境内整備を経て今日の神社があります。
    平成14年(西暦2002年)は伊太祁曽神社の初見記事である大宝2年(西暦702年)より数えて1300年にあたり、ご鎮座1300年式年・奉幣祭を執り行い、畏くも天皇陛下より幣帛料を頂戴致しました。
    平成21年には 「御鎮座1300年記念事業」 として、本殿桧皮葺屋根の葺き替え工事を行い、平成22年秋に竣工しました。

 

社格等

延喜式内社 | 紀伊国一之宮 | 旧官幣中社 |別表神社

 

御祭神・神社の名称等について

  • 五十猛命の読みかたについて
  • 当社では御祭神の五十猛命は 「イタケルノミコト」 とお呼びしています。伊太祁曽神社を紹介している書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。
    ”五十” は ”イソ” とも ”イ” ともどちらにも読みます。伊勢の五十鈴川は 「イスズガワ」 ですので後者の例です。
    但し、五十猛を 「イソタケ」 と読む場合もあります。例えば島根県には五十猛町(イソタケチョウ)という町があります。
    また五十猛町には五十猛神社がありますが、こちらは 「いそたけ神社」 と読み、御祭神も 五十猛命(いそたけるのみこと) とお呼びしているようです。
    いずれにしても、伊太祁曽神社では古来より五十猛命をイタケルノミコトとお呼びしています。

  • 伊太祁曽神社の読みかたについて
  • 伊太祁曽神社は 「いたきそじんじゃ」 と読みます。神社名の由来ははっきりとわかりませんが、五十猛命は我が国に樹木を植えたことから有功神(いさおしのかみ)の別名があります。
    日本では船や家屋は木から造られ、さまざまな道具も木を用いて造られました。また薪は暖をとったり煮炊きをするのに必要であり、大切な燃料でもありました。これらの大きな功績を讃えて、有功神(=大変功績のあった神様)と呼ばれるようになったのです。また、この神様はイタテの神とも呼ばれます。
    イタケルノミコトのイサオシ、またはイタテの神のイサオシから 「イタケイサオ」「イタテイサオ」、これがつづまって 「イタキソ」 となったという説があります。

    尚、神社の鎮座する土地は 伊太祈曽(イダキソ)と濁音になりますが、これは和歌山訛りではないかと考えられています。
    神社は伊太神社と表記してキソ(ITAKISO)と読み、地名と駅名は伊太と表記してキソ(IDAKISO)と読みます。漢字・読み共に異なります。

    また、いたきそ神社の「き」の文字ですが、漢字の編は「ネ」と「示」のどちらが正しいのかという問い合わせもありますが、これは書体の違いなのでどちらも同じ文字であり区別の必要はありません。パソコンなどで表示する場合は、使用しているフォントに依存することになります。